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Posted by ミリタリーブログ at

2014年09月29日

【日系二世】ヨーロッパ戦線初の日系アメリカ人戦死者



Joint Memorial Service 100th-Bn & 442nd-RCT & MIS Japanese Americans」、翻訳すると「第100歩兵大隊 / 第442連隊戦闘団 / アメリカ陸軍情報部所属 日系アメリカ人合同慰霊祭」という感じでしょうか。
知人経由で知りましたが、これは上記の各部隊で亡くなった日系アメリカ人の慰霊祭で、毎年9月末に行われています。
部隊詳細は専門サイトなどにお任せしますが、この「9月末」というのは「ヨーロッパ戦線で初めて戦死者を出した日」との関係があります。

その最初の戦死者とは誰なのでしょうか?

まず最初にその人物の所属部隊の特定となりますが、これは第100歩兵大隊ということがわかりました。

次に、第100歩兵大隊に関するサイト「100th Infantry Battalion Veterans Education Center(http://www.100thbattalion.org/)」の「Listing of KIA By Battle」に戦域別の戦死者リストがPDFファイルでありますので、これを読んでみましょう。
ファイルは8つで構成されています(カッコは翻訳)。



・Salerno-Cassino(サレルノ~カッシーノ)
・Cassino-Anzio(カッシーノ~アンツィオ)
・Anzio-Rome(アンツィオ~ローマ)
・Rome-Arno(ローマ~アルノ)
・Battle of Bruyeres(ブリュイエールの戦い)
・Battle of the Lost Battalion – Biffontaine(失われた大隊の戦い~ビフォンテーヌ)
・Battle of Vosges to Saint-Remy(サン=レミへのウォセグスの戦い)
・Champagne Campaign(シャンパン・キャンペーン)



該当するのは「Salerno-Cassino」です。
その資料の4ページ目にある「Our KIA losses for 29 September, 1943」が最初の戦死者になりますが、名前が2人掲載されていますね。



第100歩兵大隊B中隊軍曹 シゲオ・ジョー・タカタ(Shigeo Joe Takata) ハワイ・ワイアルア出身
第100歩兵大隊D中隊一等兵 ケイイチ・タナカ(Keichi Tanaka) ハワイ・ワイマナロ出身



他で調べたとところ、最初の戦死者はタカタ軍曹とされています。

さて、最初の戦死者はタカタ軍曹とわかりましたが、彼はどんな人物だったのでしょうか。


この写真がタカタ軍曹です。
ちなみに私が着色した白黒写真です。

以下、参考資料から抜粋して(物凄く)翻訳した内容です。

【参考資料】
Baseball's Greatest Sacrifice: Players Killed in Military Service(http://www.baseballsgreatestsacrifice.com/) / Joe Takata (http://www.baseballsgreatestsacrifice.com/biographies/takata_joe.html





シゲオ・ジョセフ ”ジョー” タカタは1919年4月29日にハワイ・ワイアルアで日系二世として生まれました。
野球好きであり、マッキンレー高校時代は「長打力を持つショート」で早くもハワイで注目されていました。
高校卒業後は地元にあるアマチュアのハワイ・ベースボール・リーグのアサヒ野球団(Asahi Team)で野球を続け、1941年11月15日に陸軍へ入隊、翌月12月7日(日本時間では8日)に起きた真珠湾攻撃の影響を受けます。

軍に入ってからも所属野球チームでは攻走守で高い能力を発揮し、さらに名声を高めていきますが、1943年9月に所属部隊の第100歩兵大隊はイタリアのサレルノへ派遣されます。

そして運命の9月29日0915時、天候は大雨、前進中に部隊がドイツ軍からの機関銃攻撃を受けたため、タカタ軍曹は陣地を特定するため敵からの激しい攻撃の中、自ら身を乗り出して囮になる行動を実行しました。

結果としては陣地の制圧に成功しましたが、タカタ軍曹は目の前に着弾した砲撃(管理人補足:公式記録では88mm砲)で負傷、その約2分後にタカタ軍曹は息を引き取り部隊は部隊のリーダーでもある野球のヒーローを失いました(管理人補足:タカタ軍曹は最期まで副分隊長に敵の位置を報告しました)。

第100歩兵大隊の基礎訓練を受ける数週間前に結婚したフローレンス・タカタ(Florence Takata、旧姓Sakamoto)夫人にタカタ軍曹戦死の知らせが届いた後、タカタ夫人は受け取った香典を赤十字などに寄付します(管理人補足:香典全額を寄付しています)。

戦死から翌年の1944年6月11日、タカタ軍曹の勇気ある行動を称えてケンダル・J・フィールダー(Kendall J. Fielder)大佐は殊勲十字章を死後授与、その勲章はタカタ夫人に渡されました。

ジョーは陽気でとてもお人よし、そして驚くほど凄い熱意をいくつも持っていました。」トクジ・オノ(Tokuji Ono)、タカタ軍曹戦死後に部隊を引き継ぐ
彼は模範的な兵士でした。偉大なスポーツマンであり、偉大なリーダーです。」ファラント・L・ターナー(Farrant L. Turner)大佐、1955年の式典にて、当時の第100歩兵大隊大隊長

そして戦死から60年経った2003年6月、ハワイのフォート・シャフターにある野球場の名前が「タカタ・フィールド(Takata Field)」と改名されました。

野球場の改名は、自由のために夢を犠牲にして最後に命を代償とした素晴らしいスポーツ選手と兵士に対し、軍が永続的な敬意を払うためのものです。」ジェームズ・キャンベル(James Campbell)中将





抜粋翻訳は以上です。
ブラジルの日本語新聞「ニッケイ新聞」にもタカタ軍曹に関する記事がありましたので、ご興味がございましたらご覧ください。

■第2次世界大戦=日系米兵2つの戦い(2)=志願兵による歩兵連隊編成 1500人募集に応募1万余
http://www.nikkeyshimbun.com.br/040714-62colonia.html

今回の記事はこれで以上です。
  

Posted by Y.A.S. at 22:30Comments(0)雑記